「無償の愛」と「恋愛の愛」は違う、ということ。

 

いや、本当にびっくりした。

本を読み進めるたび、カウンセリングに行くたび。

 

え?これって普通じゃないの?

 

ってことばっかりだった。

 

そのうちの一つが

「恋愛の愛と、無償の愛は違う」

という衝撃。

 

 

幼いころに、家族が機能していないと、

「親しい人との関係」が作りにくい。

 

話し合うとか、譲渡し合うとか、そういうことが家庭内になくて、

常に誰かの独裁政権だったり、誰かの機嫌で動いていたりするから、

子供はじっと大人の顔色を見て育つ。

 

 

「今日はお母さんが優しくしてくれた。」

「今日は暴言吐かれなかった。」

 

と幸せのハードルがかなり低くなる・・・。

 

親の愛は、ときどき気まぐれにいただけるもの、でしかない。

そうやって育つと、「私も愛されていい」ということがわからない。

 

愛情?何それ?

 

ってなる。

 

それでも思春期になり、大人になり、好きな人が出来る。

すると、リベンジとばかりに「無償の愛」を求めてしまう。

 

これまで自分が一番求めてきたもの。

本来、子供が得られるもの。

 

 

 

でも、それは残念ながら、親からしかもらえないものであり、

他人がくれるものではない。

 

でも、わからないので求める。

それほどに、子供が「愛されたい」と思う気持ちは基本的欲求なのだ。

 

お腹がすいたらご飯を食べる、

眠くなったら寝る、

それと同じくらい、子供は「愛されたい」と思っている。

実感したい、と思っている。

 

でも、もらえなかった。

そうは感じさせてもらえなかった。

 

となると、そこを無意識に埋めようとする。

好きな人に埋めてもらいたい!!って魂レベルで動く。

 

「恋はかけひき」なんて余裕こいて楽しめない。

「私のこと愛してよ!!」ってなってしまう。

基本的欲求だから、そりゃもう、命がけで求めていく。

 

するとだんだん重くなる・・・。

「重い恋愛」ってそうやって生まれるのだと思う。

 

常に愛情を感じながら育った人には当たり前のことでも、

そうじゃなかった人間にとってみれば、

「愛情は貴重なレアなもの」であるわけだから、そりゃ重くなる。

重厚感、特別感が半端ない。

 

つらい。

 

でも学んだ。30歳前後で初めて知った。

「無償の愛をくれる存在は親だけであり、残念ながらそこでもらえなかった場合、他にもとめてはならない。」

と。

 

つまり、無償の愛をもとめることは、恋愛ではない。

恋愛とは、お互いに対等な立場で好きだの嫌いだの楽しんだり、苦しんだり、

人生を豊かにするものであって、親の代わりに無償の愛を求めると、一気に重い女になってしまう。

 

 

これが無意識にやってしまうと、ずっとつらい。

 

「ああ、私足りてないんだな。その部分欠けてるんだな。」

 

とわかることからすべてが始まる。

 

 

とはいえ、認めるのは、やはりさみしいものがあった。

「うちには、なかった。」

でも、そこを認めないと先に進めなかった。

いつまでも、恋愛相手に無償の愛を求めて壊れる、みたいなことを繰り返したくもなかった。

 

それでも、そうやってなんとか頑張っているうちに、

無償の愛の部分が欠けてて、ちょっと足りない自分にも愛着がわいたり、

普通に恋愛できるようになると、無償の愛とは違うけど、それはそれで

かわりに埋めていけるようになるもんだな、と。

いびつながらも、なんとか丸く見えるようになっていくもんだな、と。

 

人生捨てたもんじゃないな、と思えるようになる。