相手との境界線。

人間関係を学びなおす上で、一番役に立ってるのはこれかも。

 

相手と自分との間には、超えてはいけない境界線がある!

 

親がグイグイ来る場合、これを学べない。

グイグイ=あなたのためを思って=愛情

と意識的に、もしくは無意識に刷り込まれてる。

 

なので、ホントは自分は関係ないのに、まるで自分のことのように考えたり、おせっかいになったり。

求められてないのにグイグイ。

あなたのためよ、ってグイグイ。

相手が嫌がってもグイグイ。

 

もう、これはクセになってしまってる。

これはクセだ、と言い聞かせることが大事。

あと、境界線とは、自分を否定するものではないと知ることも大事。

 

グイグイに慣れてしまうと、心身ともに自立してる人から礼儀として境界線をわきまえられると、なんだか冷たく感じたり、さみしくなったり。

 

あれ?そこからこっちにこないの?

みたいな。

 

でも、それは否定とは違う。

もっと言うと、自分の範囲を尊重してくれてることでもある。

 

これがわかって、ホントにラクになった。

いちいち、冷たいとか、さみしいとは思わなくなったし、人の陣地に土足で踏み入って後悔したりもめることも減った。

 

私の陣地、あなたの陣地。

間には境界線。自分を守る境界線。

お互いを大切にする境界線。

 

これで、ずいぶん生きやすくなる。

 

 

以心伝心など、ない。

母娘問題あるある、として、

母サイドが「こんなによくしてきたのに!」

ということがある。

 

「私はこんなにあなたを愛してきたのに!」

と。

 

でも思う。

伝わらなくてはないのも同然。

本当はありました、なんて信じられるわけがない。

そして、信じてはいけない。

 

 

子供が実際に辛いと思っていて、

愛されてないと感じていたとすれば、

それは伝え方が悪かったし、

本当に伝えようとしたのか?

その努力をしたのか?

私の子供なんだから、わかってくれて当然、なんて余裕で思っていなかったのか?

 

と問いたい。

 

「親子なんだからわかって当然」

と育てられた人は、大人になって以心伝心を信じているように思う。

 

言わなくても伝わる、と本気で思っているのは、

そう言われ続けてきたからだと思う。

 

信頼関係があれば、多少そういうものもあろうかと思うけれど、

母娘で悩んでいる人の間に信頼関係があることはまれである。

 

だからこそ、自分が大人になったとき、ぜひ伝えたい。

わかりやすく、ちゃんと言葉で、子供に「大好きだよ」と。

「あなたのこと、大好きだからね!」

と。

 

「言わなくてもわかるでしょ。」は怠慢でしかない。

まずは、最初は言葉にすることから。

言葉なんてお金かからないのだから、言えばいい。

言って伝えればいい。

 

言ってほしかった「大好きよ。」を

自分の子供に言おう。

 

 

 

「無償の愛」と「恋愛の愛」は違う、ということ。

 

いや、本当にびっくりした。

本を読み進めるたび、カウンセリングに行くたび。

 

え?これって普通じゃないの?

 

ってことばっかりだった。

 

そのうちの一つが

「恋愛の愛と、無償の愛は違う」

という衝撃。

 

 

幼いころに、家族が機能していないと、

「親しい人との関係」が作りにくい。

 

話し合うとか、譲渡し合うとか、そういうことが家庭内になくて、

常に誰かの独裁政権だったり、誰かの機嫌で動いていたりするから、

子供はじっと大人の顔色を見て育つ。

 

 

「今日はお母さんが優しくしてくれた。」

「今日は暴言吐かれなかった。」

 

と幸せのハードルがかなり低くなる・・・。

 

親の愛は、ときどき気まぐれにいただけるもの、でしかない。

そうやって育つと、「私も愛されていい」ということがわからない。

 

愛情?何それ?

 

ってなる。

 

それでも思春期になり、大人になり、好きな人が出来る。

すると、リベンジとばかりに「無償の愛」を求めてしまう。

 

これまで自分が一番求めてきたもの。

本来、子供が得られるもの。

 

 

 

でも、それは残念ながら、親からしかもらえないものであり、

他人がくれるものではない。

 

でも、わからないので求める。

それほどに、子供が「愛されたい」と思う気持ちは基本的欲求なのだ。

 

お腹がすいたらご飯を食べる、

眠くなったら寝る、

それと同じくらい、子供は「愛されたい」と思っている。

実感したい、と思っている。

 

でも、もらえなかった。

そうは感じさせてもらえなかった。

 

となると、そこを無意識に埋めようとする。

好きな人に埋めてもらいたい!!って魂レベルで動く。

 

「恋はかけひき」なんて余裕こいて楽しめない。

「私のこと愛してよ!!」ってなってしまう。

基本的欲求だから、そりゃもう、命がけで求めていく。

 

するとだんだん重くなる・・・。

「重い恋愛」ってそうやって生まれるのだと思う。

 

常に愛情を感じながら育った人には当たり前のことでも、

そうじゃなかった人間にとってみれば、

「愛情は貴重なレアなもの」であるわけだから、そりゃ重くなる。

重厚感、特別感が半端ない。

 

つらい。

 

でも学んだ。30歳前後で初めて知った。

「無償の愛をくれる存在は親だけであり、残念ながらそこでもらえなかった場合、他にもとめてはならない。」

と。

 

つまり、無償の愛をもとめることは、恋愛ではない。

恋愛とは、お互いに対等な立場で好きだの嫌いだの楽しんだり、苦しんだり、

人生を豊かにするものであって、親の代わりに無償の愛を求めると、一気に重い女になってしまう。

 

 

これが無意識にやってしまうと、ずっとつらい。

 

「ああ、私足りてないんだな。その部分欠けてるんだな。」

 

とわかることからすべてが始まる。

 

 

とはいえ、認めるのは、やはりさみしいものがあった。

「うちには、なかった。」

でも、そこを認めないと先に進めなかった。

いつまでも、恋愛相手に無償の愛を求めて壊れる、みたいなことを繰り返したくもなかった。

 

それでも、そうやってなんとか頑張っているうちに、

無償の愛の部分が欠けてて、ちょっと足りない自分にも愛着がわいたり、

普通に恋愛できるようになると、無償の愛とは違うけど、それはそれで

かわりに埋めていけるようになるもんだな、と。

いびつながらも、なんとか丸く見えるようになっていくもんだな、と。

 

人生捨てたもんじゃないな、と思えるようになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最初に。

 

「私、おかあさんのことキライなんだ・・・」

 

と認められたのは30歳手前。

ずっと「いい子」で生きてきた。

認められたかった、愛されたかった。

 

でも、もうそれは無理なんだと認めることにした。

ここに一番の勇気とパワーが必要だった。

 

「認めた瞬間、半分は解決」

とカウンセリングの先生が言った。

そこに希望を見出した。

 

そこから本をたくさん読んだ。

どうしてこんな恋愛しかできないのか。

どうしてこんな人づきあいしかできないのか。

どうして自分に自信が持てないのか。

どうして夜不安で眠れなくなるのか。

どうして「なんだかつらい」のか。

どうしてこんな私なのか・・・。

そこには、「そうだったの!!!」という答えがたくさんあった。

 

お誕生日のたびに年はとるけど、まるで子供の私が自分の中で成長が止まったまま取り残されていることを知った。

 

愛に飢えた、小さな私。

 

「おかあさんごめんなさい」

と意味もなく謝り続けた幼いころ。

「マリア様、明日はお母さんがお話してくれますように。」

と祈り続けた幼いころ。

 

もういい。

もういいから。

 

私は自分で心の中の小さな私を抱きしめた。

 

「寂しかっただけ、愛されたかっただけ。」

愛に飢えると人はこんなにおかしくなる。

その自分に気づけないと、もっとおかしくなる。

 

 

本やカウンセリングの手を借りて、どんどん自分を取り戻した。

 

ただ、ときどき思ったのが、「先輩が欲しいな」ということだった。

「私の場合はこうだったよ。」と体験談を教えてくれる先輩がいれば、どれだけいいだろう、と。

 

今、すこしおばちゃんになって、周りで似たような悩みを抱えてる人に出会う。

少しの体験談は共有できるかなと思いブログを始めることにした。

というのも、この問題は、どこまでいっても円満解決などない。

私もまだまだ悩みながら生きていくのだろう。

 

 

でも、「仲間がいる」ということが力になることもある。

 

 

同じようなことで悩んでいる人と、色々共有できればいいなと思います。